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重野正敏対話室

元福岡県議会議員 重野正敏の対話室ホームページ

八女に生き郷土愛に燃え、八女郡広川町町議会議員2期を経て、福岡県議会議員6期を務めさせていただきました。
これまでの経験を活かし、地域の皆様と有意義な交流を続け、力の続く限り地域振興の力となるべく活動を続けています。
お近くにお越しの際は、お立ち寄りください。

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Writing執筆活動

★人生史サークル「黄櫨の会」会誌 「黄櫨」第56号 2016年8月

 「ゆく春や鳥啼き魚の目は涙」有名な松尾芭蕉の句でありますが、生きとし生けるものすべてが、季節の移ろいに涙する様子が、ありありと瞼に浮かびます。ましてや、喜怒哀楽の繰り返しの中に生きております人間にとっては、涙は付きものではないでしょうか。

 私も、どちらかと言えば涙もろい方でございまして、毎年、夏が来てお盆や終戦記念日が近まりますと、テレビの前でなりふり構わず大粒の涙を流したものでございます。

 それは、野坂昭如さん原作のアニメーション映画「ほたるの墓」が必ず上映されていたからでございます。中でも、5才ぐらいの妹せつ子が、栄養失調でやせ細り、防空壕に横たわり枕元に泥饅頭を作り、外から帰って来た中学生の兄清太に、
「お兄ちゃんも、ひとつお食べ? おいしいよ・・・」
と言って、静かに息を引き取ってシーンには、思わず「嗚咽」したものでございます。3年前ごろは、私の眼も随分霞が濃くなっていましたので、この涙で、少し洗い流してくれないかな〜と思ったりしたものであります。

 こうした涙のシーンを思い出させてくれたのは、先日、会員の方から届けて頂いた黄櫨55号であります。それは、巻頭に書かれている末安良行氏の「牛の涙」でした。

 ある日、肥育された牛を積んだトラックが、屠殺場に着いてもなかなか降りてこない。そっと覗いて見ると、飼主に付いて来た10才ぐらいの女の子が、
「みーちゃん、ごめんねー。みーちゃん、ごめんねー」と、牛のおなかをさすり続けていたそうであります。飼主のおじいちゃんも、
「本当は、私も、もうしばらく置いておきたかったんですが、この牛を売らんと、正月が来んとですよ」と、屠殺者の坂本さんにお願いされたとの事でした。いよいよ、翌日、その時を迎えた坂本さんと牛の無言の会話は、牛と共に15年を過ごした私には、痛いほどよく分かりました。

 私は、28才から、43才までの15年間を、牛と共に過ごしました。これから、その涙の軌跡をたどってみようと思います。

 家には、昔から農作業用の大きな牛がいたので、頑丈にできた牛小屋がありました。それを活用して、子牛を飼おうと思い、酪農をやっている友達の家に行ったら、生まれて間もない子牛が3頭ぐらい、牛舎の中を走り回っていました。「この子牛は、どうするとね」と聞くと、友達は、「生まれて1週間すると家畜商の人が買いに来るもんの。もう、あした当り、来るかも知れんばい」と言ったので、すかさず、「俺に、売ってくれんね」と持ち掛けたらびっくりした様子で、友達は、「そりゃあ、良かばってん。どうするとね」と聞いてきたので、その頃、自分が考えていた保育から肉牛にするまでの構想を話したら、友達は、「搾乳牛が30頭おるけん。次々に生まれるもんの。要る時は、いつでん、良かけん取りに来んの」と、気持ちよく分けてくれました。その上に、「しばらくは、粉乳を飲ませんといかんもんの」と言って、粉ミルクまで、分けてくれました。家に連れて帰り、早速、教わった通りに、バケツに粉乳を溶かして、指を2本入れて、子牛の口元に持って行くと、親から授乳するように飛びついて来ます。それが、かわいくて、かわいくて、それがやめられないぐらい気持ちの良い作業であります。この仕事を、子供達に頼んだら、それはそれは、順番を決めるのが大変なぐらい人気の高い仕事になりました。

 育成牛は、人間に例えますと、青年から、壮年時代に相当するのではないかと思いますが、私の場合は、放牧地が40アールぐらいの湿田と50アールぐらいの山林に鉄条網を張っただけの簡単な柵でしたので、時々、抜け出して、ふた山も三山も超えてビニールハウスに植えられたばかりの菊畑を走り回ったり、1キロぐらい離れた家の庭先で植木鉢を割ったりします。いたずらをした子供の後始末をするかのようにお詫びをして回ったものであります。

 肉牛には、主にホルスタインのオスを肥育しますが、オスだけあって、腕白で元気旺盛な半面、賢くて人懐っこいところもあります。年に1度は、検診をして体調が良くない牛には注射をうったりしますが、しばらくすると、獣医師の車を音で聞き分けて、姿が見えないうちに一斉に山の中に逃げ込んでしまいます。捕まえたい時は、とうふのおからとペレットが入った一斗缶をたたくと、ぞろぞろと山から下りてきたものであります。言葉は通じなくても気持ちはお互いに通じ合っていました。

 専門家の話を聞くと、ぬれ子(生まれて1週間程)から肉牛になるまで2年間かかるので、ぬれ子から3・4ヶ月までの保育、4・5ヶ月から1年ぐらいの育成、そして、仕上げの肥育、に分けた方が資金繰りや仕事も楽になると言うことでしたので、保育牛の仕事を5年間、育成牛の仕事を6年間で、毎年、20〜30頭ぐらい、肥育(肉牛までの仕上げ)を4年間で30頭ぐらいと続けましたが、それぞれの段階で愛情がうつり、つらい別れが待っています。

 「牛の涙」の様に、つらい寂しい思いをしたのは、4年余りでしたが、その間に、20頭ぐらいの牛を家畜商に手渡しました。当時、屠殺場は、久留米市花畑にありました。家畜商に同行して、昨日まで可愛がっていた肉牛が解体された直後の姿を見せてもらいながら、肉の付き具合や肉の良し悪しの説明を受けたものでした。その度に、「もう、この様な仕事は止めよう」という気持ちと「もう少し続けたい」という気持ちが交差して、その複雑な気持ちは言葉では表現できません。

 私の場合は、牛の涙もさることながら、子供達や私の涙の方が、ずっとずっと多かったのではないかと思います。特に、肉牛との別れの時は、生活のためとはいえ、人間は、なんと残酷なことをするのだろうと思うと、何か、大きな罪を犯しているような気持ちになり、むなしくなったものであります。

 末安会長さんの「牛の涙」を拝聴して、人の命をつないでくれている様々な生き物や、それを食用に加工していただいている方々に改めて感謝しているところでございます。

 この黄櫨は、発刊以来19年間、珠玉の自分史や名文を満載して多くの人々に55号の「牛の涙」のように大きな感銘を与えてきたのではないかと思います。今後、会員の皆様や地域の皆様のご尽力で、更にさらに充実発展されますことを心から願ってやみません。ありがとうございました。



追憶

★人生史サークル「黄櫨の会」会誌 「黄櫨」第57号 2016年12月

 「うさぎ追いしかの山、こぶなつりしかの川」童謡の「ふる里」の風情そのものでありますこの八女地方をこよなく愛し、その一角であります広川町の山間部で茶や富有柿、水田を耕し、厳しいながらも、楽しい我が家を築き、細々と農業を営んで来ました。

 それまでは、父が村長(元 上広川村)をしながら、人を雇っての農業で、片手間でやっていましたので、収量も少なく、かろうじて維持しているといった経営で殆んど収益はなかったようであります。毎年、収穫の時期になると、私に「お前が、頑張るようになったので、なんでもよく取れるようになったなあ〜」と、喜んでくれるのが何より嬉しくて、朝は太陽より早く夜は太陽より遅くまで働き、頑張ったものでした。

 その父が、昭和42年4月2日夜、一緒にテレビを見ていて気付かないように静かに永眠しました。私が、26歳の時でした。これを境にして、私の人生は大きく一変しました。

 私と家内は、共に19才で結婚しましたので、すでに4人の子宝に恵まれていました。小説「若草物語」でした。家内は、子育て、農作業に加えて、中風でもう2年も寝たきりの母の世話。その後、母は5年間寝たきりで父と同じ72才で他界しました。

 その頃は、茶が主力で、1町5反ぐらいを、はさみで摘んでおりましたので、3・4人の方を雇っていました。年4回の製茶工場の受け入れ期間には、受け入れが始まった日から、「もう明日で受け入れは終わりますよ」と言われるまで、2週間ぐらい長々と摘んだものです。

 正直言って、高級茶や優良茶などといったお茶ではありませんでしたが、町内の製茶工場から、いつも良心的に買い上げていただき、「若草物語」の4姉妹を育てることができました。

 富有柿も急斜面に植えていたので、剪定・消毒・収穫など、骨が折れる割には能率が上がらず、「骨折り損のくたびれ儲け」のような仕事ばかりでした。こんなことを続けていては、生活はおろか、4人の娘達の将来を考えると、夜もろくろく眠れませんでした。そのことが、脳裏から離れず、焦りが出始めていた頃、暗やみの中に光明が差し込んで来たような話が耳に入りました。

 それは、福岡県主催の米国セミナーの参加者募集でした。県全体で30名の募集でしたが、対象者は農協青年部員であることが条件でした。参加する青年部には経費の半分を農協が補助することになっていましたが、残念ながら、私は、年齢も37歳で青年部員でもないことから、補助金はおろか、参加することも無理ですということでした。しかし、私は「何としてもこの目で、アメリカの農業を見たい。カリフォルニアで先進的な農業を見て、八女地域はもとより、福岡県の農業を全国一の最新鋭の農業にしたい」との一念で、皆の助手でも良いからと言って説得して、必死の願いを聞いてもらって、仲間に入れてもらいました。しかし、旅費は、全部自前でした。何日間もレクチャーを受けて、昭和52年9月15日(木曜日)、カリフォルニアへ飛びました。最初の視察地は、カリフォルニアの一番北の都市サクラメントに行き、そこからバスで2週間かけてカリフォルニアを南下しました。

 カリフォルニアに着いて、先ず、驚いたのはその広大さでした。アメリカの国土面積は985万7千平方キロメートルで、日本は37万7千平方キロメートルなので、約26倍。カリフォルニア州だけで、日本の1・1倍あり、耕地面積は、日本の、450万ヘクタールに対して、アメリカは、4億万ヘクタールと、90倍あります。

 先ず、最初に行った所は、コメの専業農家、甲附田(こうだ)農場でした。稲の作付面積は、2800ヘクタールで、八女市(作付面積2500ヘクタール)と広川町(460ヘクタール)で、合計2960ヘクタールの水田を一人で耕作しているようなものです。

 作付けは、飛行機による直播栽培で1日千俵(60キロ換算)を収穫する超大型コンバインを15台ぐらい所有し、農機具倉庫は、学校の体育館ではないかと思える大きさでした。トマト栽培も、全く同様でした。畑の向こうはかすんで見えません。只、見えるのは、人の背丈ほどのトマトの木に完熟した真っ赤なトマトだけ。それを収穫するのは、稲のコンバインよりひと回り大きいコンバインに、4人の作業員が乗り込みます。コンバインは稲刈りと同じようにトマトをまたいで進み収穫します。4人は流れて来たトマトから青い実と傷果を選別します。その横に十トン車くらいのトレーラーが伴走しますが、20分位して帰って来ると、トレーラーは、満杯になっています。そのトレーラーはそのままケチャップ工場に走り、トマトは次々に加工されて行くのです。ネギ、レタス、キャベツの葉物やイモ類、菊やカーネーションもその方式で行われていました。広大な花卉団地は、全員10数年前に鹿児島県から移住された人達でした。一棟が50アールぐらいの広いアクリル製ハウスを1人で20棟ぐらい所有して経営。カーネーションは全部純白で、様々な色の染料を容器に溶かして、その容器に一昼夜花をつけ吸収させて色とりどりのカーネーションを生産していました。開業した時は膨大な資金が必要だったようですが、生命保険と連帯保証の全額融資でまかなえたそうで、「とても日本では考えられない事です」と、カリフォルニア州政府に感謝されていました。

 畜産もまったくその通りで、肉牛は、2千頭か3千頭をひとつの牧場で肥育しており、何人かのカウボーイと牧導犬でコントロールしていました。乳牛は一つの牧場で、5百頭から7百頭が飼われて搾乳されています。時間が来ると間の広い通路が次第に狭くなり、牛が一列になった所で、乳房を自動で洗浄する搾乳機にかかり、終わると餌を食べて元の牧場に戻ってきます。正に、完全な流れ作業でありました。

 また、これは、農業視察ではありませんが、カリフォルニア州首都サンフランシスコの近郊にあるシリコンバレーにも、立ち寄りました。1970年代から立地が始められたシリコンバレーには、世界中の先端産業が約1万社、その内、日本から、約850社が進出しており、アメリカの偉大さを象徴しているようであります。これは、40年前のアメリカ産業の一端であります。

 行く時は、夢と希望に胸を膨らませて、喜び勇んで出かけましたが、帰りは余りにもかけ離れたアメリカ農業の偉大さに、抜け殻のようになって帰って来ました。

 家に着いてしばらくは、何も手に付きませんでした。時間が経つに連れて、規模は小さくても何かこの八女地方の農業に役立てるようなものはないか、何か取り入れることはできないかと、寝ても覚めても考えない日はありませんでした。そんなある日、ふと脳裏によみがえったのが、研修終わりに近づいた頃訪問した、日系二世のジョージ中田という人が言われた言葉であります。その中田さんの話と言うのは、「私は、50ヘクタールの畑でネーブルとオレンジを作っているが、この面積では、アメリカでは、やっていけませんので、もうやめようかと思っています。日本には、四季がある。それを施設園芸で付加価値を高めれば土地は狭くてもやっていけるんじゃないですか。このカリフォルニアは広くて温暖な所のように思われているかもしれませんが、3年か4年に一度は必ず寒波にやられるので大変です。」ということでした。折しも、本県福岡県では、イチゴが盛んになりかけていた頃でしたので、このカリフォルニアの話を、機会あるごとに話したものであります。

 私は、茶と柿を広めていたので、イチゴは作れませんでしたが、イチゴに切り替えていた方が良かったかもしれないと思ったりしたものであります。

 あれから、40年経った現在は、どのような農業や産業が行われているのか、想像もできません。今、大きなヤマ場を迎えておりますTPPが発効すれば、アメリカと同様かそれ以上の農業が行われているニュージーランドやオーストラリアが加わりますので、例えば日本が、10輸出できるようになれば、そうした国から、100から1000近くが入って来ることは、火を見るより明らかであります。現在、我が国の輸出は大幅に伸びていますが、その輸出先の大部分は、その加盟国以外の諸国であります。そうなれば、我が国の1億人の生命は、農業大国にすべて委ねなければならなくなります。現にアメリカの有力者の中には、日本が「アメリカ合衆国51番目の州」になるのは、そう遠い未来ではないかも知れないと予言している人もいるそうであります。

 その懸念を払しょくするには、年々下がっております自給率を、いかに高めるかが喫緊の課題であります。ちなみに、ニュージーランドの食糧自給率が300%、カナダが258%、オーストラリアが205%、フランスが129%、アメリカが127%です。それに比べて、日本は、39%であります。この数字は主要先進国の中でも最低の水準です。これを、引き上げるためには、先ず、地産地消に徹し、全国津々浦々に、もっともっと活力を与えて、若い人たちが一人でも多く地方に残り、活気に満ちた地域づくりに励めるような環境づくりをする事こそ、何より重要な事ではないかと、この「追憶」をつづりながら痛切に感じている所でございます。


連絡先

重野正敏対話室

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